2020年6月8日月曜日
記憶
”記憶”が何か人類にとって、とても重要な気がするので、
”記憶”の本質を何とか掴んで置きたい。
シニフィエ(意味されたもの)
シニフィアン(意味しているもの)
この二つの概念は、分かってきた。
例えば、バレンタインの日に女の子が、
ある男の子にチョコを渡すこと(意味されたもの)は、
その女の子はその男の子が好きということ(意味しているもの)だ。
そして、
好きという感情(意味されたもの)は、
私の考えでいえば、独占したい(意味しているもの)になる。
これをやっていけば、きりがない。
ここでもう一つ考えたいことがある。
それは、
シーニュ(意味されたものと意味しているものを繋ぐ概念)
さっきの話でいえば、その女の子は、その男の子を好きだということを、
記憶(シーニュ)していなければ、チョコを渡すという行為には及ばない。
だから、
シーニュ=記憶
だ。
記憶と意味は、どう関係している?
わたしに取って、記憶とはなんだ?
何か新しい認識を得るには、鍵が必要だ。
今まで知らなかったことを知るには、鍵が必要なのだ。
こうやって文章を書いているのは、
最初に強烈な何かの”インパクト”があった。
それは、言葉にはできないが、覚えている。
最初に結果があったはずで、それを、日本語という言葉と微かな記憶を駆使して、
なんとか表現しようとしている。
何とか、記憶と対になるものを見つけ出さなければならない。
記憶とは、思い出だから、
もしかしたら、対になるのは、そうならなかった可能性かもしれない。
もしかしたら、この世界が存在しなかった可能性もあるかもしれない。
わたしが、確かに歩んできた道であり、
世界が、確かに歩んできた道でもある。
わたし一人の中にも、取り合えず、今までの世界のすべての記憶が眠っているはず。
それは、生まれてから記憶したものではなくて、
それは、生まれてくる前に、既に記憶したもの。
もし、自分が生まれてこなかったら、世界は、そもそも存在しないのだ。
存在を存在たらしめる為に、記憶するのだ。
なぜ?
分かりきったことだ!
忘れない為だ!
心を亡くさない為だ!
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